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●幸福論● 僕と、僕に関する全ての人が、この文章によって少しでも「人生が幸せに」なるために。その2

●幸福論● 僕と、僕に関する全ての人が、この文章によって少しでも「人生が幸せに」なるために。その2

●1事象→2感情

次に「1事象→2感情」のラインでのカイゼンを考えよう。
上記では、「自分の中で幸せカテゴリに分類される「感情」を増やそう。」と書いた。
幸せカテゴリに分類される「感情」を仮に「幸せの素」と呼ぼう。
では、次にしなければいけないのは、「幸せな感情(幸せの素)になる事象の種類を増やそう。」だろう。
上記2つは似ているように感じるが、全然違う。これも、価値観の問題なのである。
○○のように感じる、ということは、どういう事だろうか。
何かの事象を経験した瞬間に、その当事者の価値観を通してその事象を判断し、価値観に準じた感情を感じるということだろう。

セロリを見る、という行動においても、
昌一という人だったら「セロリやん!めっちゃうまそう!!」
松浦という人だったら「セロリやん!やばい、めっちゃマズいし嫌い!俺の前から姿を消してくれ!!」
となる。山本と松浦ではセロリに対する価値観が違うのだから、当然だ。

この場合、超単純に考えると、セロリが好きな、昌一の方が幸せである。
好き嫌いは、無い方が幸せなのだ。
全部好き、が一番幸せだと思う。

上記のセロリは非常に単純な事象で、Yes&Noしかない。非常にカンタンだ。
幸せを増やすためには、セロリを好きになればいい。
だが、もーちょっとヒネった事象はどうだろうか?
少し詳しく書こう。何回も書き直したが、パズルのようなものなのでわかりやすい表現ができなかった。
反省します。。。
よかったら、じっくり読んでください。

例えば、松浦が昌一を褒める、という事象があるとする。
これにはまず2つの解釈がある。
1・昌一が素直な価値観だったら、「ほめてくれてありがとー」と思う
2・昌一がひねくれた価値観なら、「こいつ、心にもないお世辞言いやがって」となる。
この2つのパターンの場合を見ると、1の方が幸せであろう。
1の昌一の心の中は、嬉しい気持ちでいっぱい。幸せの花畑が咲いている。
ただ、物事は単純ではない。
もし、松浦が心のなかで「昌一はバカだから、お世辞を言っておけば喜んで食事をおごってくれるだろう」と思っていたらどうだろうか。
松浦の嘘を見破っている2が幸せ?
いや、そんなことはない。それは価値観次第だと思う。
真実は「松浦は昌一を褒めた。だが、松浦が昌一を褒めたのは嘘だったと、後から分かった。」
と仮定して話を進めよう。

まず、そもそも松浦に褒めてもらって嬉しいか、という価値観のフィルターがある。これは最初に話したYes&Noだ。
それに加えて、松浦がウソを言っていた場合に対しての価値観のフィルター。2つ目のYes&Noだ。
これによって、最低2×2=4通りの捉え方が生じる。
例として、下記に4つの捉え方を書いてみる。
「松浦は昌一を褒めた。だが、松浦が昌一を褒めたのは嘘だったと、後から分かった。」
A、松浦が昌一を褒めてくれた。昌一はすごい幸せを感じた。
でも、松浦は、実は嘘を言っていた。
それでも、昌一はコミュニケーションとして褒めてもらったことに幸せを感じる。

B、松浦が昌一を褒めてくれた。昌一はすごい幸せを感じた。
でも、松浦は、実は嘘を言っていた。
昌一は、嘘を言っていた松浦に敵意を感じた。幸せではなくなった。

C、松浦が昌一を褒めてくれた。でも、昌一は松浦が嫌いなので、ちっとも幸せには感じなかった。
でも、松浦は、実は嘘を言っていた。
それでも、昌一はコミュニケーションとして褒めてもらったことに幸せを感じる。

D、松浦が昌一を褒めてくれた。でも、昌一は松浦が嫌いなので、ちっとも幸せには感じなかった。
松浦は、実は嘘を言っていた。どっちにしても松浦が嫌いだから、褒めてもらっても全然嬉しくなかった。

2つの価値観が関与しているおかげで、こんな簡単な問いでも、4つの感情に分かれる。
実際は、Cの論理は矛盾しているので、A,B,Dのどれかになる。
事象はあなたの価値観によって必ず、A,B,Dのどれかに振り分けられるのだ。
ゼッタイに。

では、最善の選択はどれだろうか。
この場合、他の要素を全て排して考えると、幸せ度が高いのはやはりA→B→Dの順である。
他の要素や、どんな人生を送りたいかという判断にも拠るが、この事象だけで見ると、
我々は、我々の幸せのために、Aの考え方になるべきだろう。

これが、「幸せの素となる、事象の種類を増やす」ということだと考える。

仏教とかキリスト教とか、色んな宗教で色んな似たような教えがあるが、基本はこういう意味なんだと思う。
同じことを、観点を変えて言っている。
もう一度おさらい。
まずは、「自分の中で幸せカテゴリに分類される「感情=幸せの素」を増やそう。」
そして、「幸せの素になる事象の種類を増やそう。」

1事象→2感情→3幸せ

そうすることによって、日常的に、1→2→3となることが増え、具体的に、貴方の人生がもっと能動的に幸せになるのだと思う。
●幸せのハードルを下げる
さて、同じ事象、同じ価値観でもっとラクに幸せになる方法がある。
それは幸せのハードルを下げる、という方法だ。

例えば貯金に関して、俺は100億ないと心配で夜も眠れない!という金持ちよりも、財布に5000円はいってたら取り敢えず安心というホームレスのおじさんの方が幸せになる可能性は高い。
カンタンに幸せになろうと思ったら、価値観をホームレスのおじさんにすればいいわけだ。
そういう訳で、幸せの目標を引き下げる、という「幸せに近づく方法」がある。
結婚するときに、「まあもう他におらんし、この人と結婚でいいか」と結婚してしまうのはこの「幸せに近づく方法」の典型だろう。
「幸せの目標を引き下げて、幸せに近づく」。
きっちり納得感を持って行えば、これは悪くない方法だと思うし、ハードルを一度も下げない人生なんて無いと思う。
と、いうわけで、「幸せのハードルを下げる」と「幸せに近づく」という公式が成り立つ。
だが、ちょっと待って欲しい。
逆に「幸せのハードルを上げる」とどうなるのだろうか。
皆様ご明察の通り、「幸せのハードルを上げても、幸せから遠ざかる」わけではない。
これは後のメトロノームの章で書こうと思う。
●幸せを感じている状態と、幸せを追い求めている状態。どちらが幸せなのか。~メトロノーム~

幸せには2つの状態がある。
A、幸せに到達せず、幸せを追い求めている状態
B、幸せに到達し、幸せを感じている状態
この2つの状態である。

これを、努力モードと満足モードと呼ぼう。パチンコみたいだな。
Aが努力モード
Bが満足モード
我々は幸せに関して、まるでメトロノームのように、このABモードをふらふらしている。
例えば、
A、年収5000万という目標に到達せず、幸せを追い求めている状態
B、年収5000万という目標に到達し、幸せを感じている状態
である。

努力モードから満足モードに移行する方法は2つある。
1、自分が設定した、幸せのハードルに到達する。
→年収5000万に到達する。

2、自分が設定した、幸せのハードルを引き下げる。
→年収3500万でもーいいやと価値観を変える。

満足モードから努力モードに移行する方法は1つある。
3、自分が到達した、幸せのハードルを引き上げる。
→年収5000万になったから、次は年収1億円を目指す。

せっかく頑張って満足モードに入ったのに、なんでワザワザ「3、自分が到達した、幸せのハードルを引き上げる。」をして辛く厳しい努力モードにならなきゃならないかというと、
「あなたがドMだから。」
ではなく、、、
目標を上げ、それに到達した方が、より強い幸せを得れるからである。
では、際限なく幸せのハードルを引き上げてもいいのかというと、そうでもない。
到達できないレベルまでハードルを引き上げると、死ぬまでその分野で幸せを得ることができなくなってしまう。
それは、総じて人生の幸せの総量を減らすことになる。
ここで上記の「●幸せのハードルを下げる」が出てくるわけである。
もう一つ議論しなければならないことがある。
今まで満足モードが幸せ、努力モードが幸せではない、ような書き方をしてきたが、本当に努力モードは幸せではないのであろうか。

幸せの定義は「自分が幸せと感じること」である。

では、努力モードも幸せである、と捉えることはできないのだろうか。
つまり、「自分が納得して設定した目標を追い求めている状態」は幸せな状態と定義する、または価値観をそういうふうにカイゼンするべきなのである。
そうすることによって、マジで最強な状態になる。幸せを追い求めている状態では、毎日ささやかな幸せを感じ、目標の到達したときには莫大な幸せを感じることができる。
総じて、常に「幸せな状態」でいられるのだ。

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